哲学する言葉と記号たち
—原田透個展によせて
言葉はすなわち哲学そのものである。
表現者たちは、環境変化、境遇変化等さまざまな変容の中で常に新たな新語を生み出し、それが新た時代を生きるわれわれを少しだけ前に進めさせる。進化したか退化したかは言い難い。技術的な進化は真の進化とは違うからだ。
コロナ禍で世界は分断された世界に逆戻り、終焉を迎えてまもないと思われた「冷戦」は再び理念も理想もない品格を失った政客たちにより、再び「新冷戦」の顔をしてわれわれに疫病が治まる前に戦争までを齎せている。
上海の郊外朱家角という水の都がある。ここは原田透がアトリエを構え、しばらく作品を作り、生活をしていた街である。放浪しながら作品を作ったか、作品を作りながら放浪したかは私には定かじゃないが、移動しながら現地の廃棄された古いものを再構築して立体作品を発表してきた。その地で私もアトリエを構えていた。
コロナで日本に巣ごもり状態が続いた長い歳月、私はWechatや様々なS N Sで新たな状態の作家原田透に出逢った。対面であまり会えないらしい世の中で、取材で出かけた萩という町に彼はいた。今を生きる新作シリーズ、時間と空間を超えてどこかでかってに融合して飛び交う感情の数々、言語や声や行為や、笑い声や泣き声を、私は聞いた。彼の作品の中で。
人は、誰かを愛して生きる。すでに愛してないのに、愛されてもいないのに一緒にいたりする。自分を「納得」させられないから、共に過ごした時間が悔しいからかもしれない。「愛」とは一体何だというのだ。
すべての人に不満であり、全ての人は不満を抱えて生きている。今や夜の静寂と孤独の中にあり、私は自らを償い、多少の誇りを取り戻したいと願う。私がむかし愛した人の魂よ、私を強くし、私の弱さを支え、世の一切の腐敗した臭気と虚偽とを私から遠ざけてほしい。一度離れた心は戻ってこないことぐらいわかっていて、脆くて壊れそうな「傷んだ心」を隠し持って辛うじて「泣きづら」をマスクの中で隠すのだ。
傷つけられたのはプライドか「共有した空間」か。あるいは時間か。「無条件」に信じ続けてきた「その何か」を失い、迷える魂。綺麗に化粧しても、そんな些細なこと忘れてしまえとは言えないほど、無視されている日常的な無関心。愛さなくなったらそこまで自分のことしか考えない「エゴイスト」だったのかと嘆く。
誕生日の日に自分に芍薬を買った。薄いピンクがほしかったけど濃いピンクしかなかったので蕾で6株買い、グリーンのカラーを2株買った。その昔、パリで遠い恋人からもらった花屋が懐かしかっただけだったかなあ。1株名の知れぬ濃いピンクの花をプレゼントしてもらう。
私たちは誰かを大事にし、誰かに大事にされながら生きている。なんの変哲もない日常の中で、守りたいのは「真実」を失いがけた「虚偽の関係性」だったのか。せめて数行でもいいから、美しい詩句を生み出せるように、「いま」を自分らしく生きていたい。そして、気分が優れない時は、美しい空を見上げたい。
さまざまな記号や文字、気分がミックスされた原田透新作で私の真の喜怒哀楽を読み取る。作品の前に立つあなたが何を感じるか想像してみるが、それが何かは「あなた」しかいない。
Shun 台場アトリエにて