
Shun Art Gallery Tokyo では、6月6日から7月13日まで原宿スペースで、余潤徳の個展「幻・相」を開催いたします。
余潤徳の「幻・相」シリーズは、中国水墨画の抽象的かつ表現主義的な技法を通じて、「存在と意識」「現実と幻想」「感情と生命」といった深遠なテーマを静かに問いかける作品群である。墨による構成や空間、線の対比を巧みに活かしながら、どこかで見覚えがあるようでいて非現実的な風景を描き出し、鑑賞者を日常から切り離し、幻想と現実のあわいへと誘う。その視覚的世界は、私たちが現実をどう感じ、自己と世界とのつながりをどのように捉えているのかを見つめ直す機会を与えるとともに、物質を超えた精神的な体験へと導いてくれる。
現代アートの文脈において、余潤徳は常に鋭い観察者であり、深い思索を続ける表現者である。その創作は東洋哲学に根差した思弁性を基盤としつつ、西洋現代美術の実験精神を融合させることで、独自の視覚言語を築き上げてきた。彼の作品は客観世界の単なる再現ではなく、主観的意識を経由して「経験された現実」を提示するものである。画面に現れる朧げな光と影、流動する筆致は、フランスの哲学者モーリス・メルロー=ポンティの言葉を想起させる──「知覚とは世界の複製ではなく、世界への参与である」。余潤徳の制作は、まさにその「知覚の真実性」への問いかけである。現実が記憶、感情、想像によって媒介されるとき、我々は何をもって「真実」と呼べるのか。さらに彼の作品は、ジャン・ボードリヤールによる「シミュラークル」理論とも共鳴する。消費社会とデジタルメディアに包囲された現代において、イメージはもはや実体の写しではなく、自己複製を繰り返す記号の体系と化している。余潤徳の筆致による曖昧なフォルムや幻影のような光彩は、そのような記号の時代における人間存在のメタファーでもある。アルゴリズム、広告、SNSが構築する「超現実(ハイパーリアル)」な世界に生きる私たちにとって、芸術の今日的意義とは、まさにこの記号秩序の不条理を可視化することである。
余の作品に向き合うとき、私たちは覆い隠された顔、途切れた線、曖昧なシルエットに出会う。それは、都市に生きる私たちの内面を映し出す精神的な肖像である。高度に接続されたデジタル社会の中で、個人はかえって深い孤独に包まれているのかもしれない。しかし、彼の絵画は単なる現代社会への批評にとどまりません。画面に突如として現れる鮮やかな色彩や自由に舞う筆致は、「希望」や「抵抗の芽生え」を感じさせる。ハーバート・マルクーゼが語った「芸術の解放的な力」のように、彼は、絵画という行為そのものを通じて、道具的理性から一時的に逃れるための「異托邦(ヘテロトピア)」を構築している。鑑賞者はその凝視の中で、自己への新たな発見へと導かれるのである。
彼の創作の根幹には東洋哲学、特に老荘思想や禅の精神が息づいている。「有と無の共生」や「不立文字」といった概念は、余白や構成として画面に可視化され、繊細な筆致や朧げな光、張りつめた構図として表現されている。それらは、鑑賞者の知覚の限界を静かに揺さぶりながら、現代を生きる私たちの精神的な渇望や、不確かな世界における存在の在り処を映し出しているのである。彼の作品は、夢のように儚く、それでいて超越的なリアリティをたたえている。そして、「見えるものがすべてではなく、見えないものが虚無とは限らない」と語りかけてくる。
本展は、余潤徳の芸術活動のひとつの集大成であると同時に、鑑賞者への静かな招待でもある。日常の束縛をひととき離れ、光と影、水墨と色彩、記号と余白によって構築された精神の風景へと、ぜひ足を踏み入れてほしい。そこには、現実と幻想、物質と意識のあいだをたゆたう、言葉を超えたアートの体験が待っている。